昭和46年1月28日 朝の御理解
中村良一
御理解 第13節
「神は向こう倍力の徳を授ける」
神様の願いと、神の願いと申しますよね。いわゆる、神願です。神願、神願成就のために、私共は、信心をさせて頂かなければならんと言うても良いのです。私共の願いが成就することの為に信心する。まぁ、これが、普通一般の考え方ですけれど、金光様のご信心は、そこんとこが、段々、分かってまいりますとね。私の願い、なるほど、願いを持たない者はありませんけれども、ね。本当のことを言うと、神様の願いが成就する。天地の親神様の願いが成就する。例えて言うと、私、大坪総一郎の願いが成就すると言うたら、それは、小さなことであったであろう。例えば、私が、根っからの商売人ですから、ね。もう、本当に、大商人になりたいと思うた。大きな商売をさせて貰うて、大きな儲かりをさせて頂いて、大きな財のおかげでも頂きたいというのが、私の信心のさせて頂く、一つの夢であった。ね。けれども、その夢は、まぁ、見事に破れたわけですけれども。私の家に、様々な働きがあった。その働きの全てが、神の願いが成就することのためであった。ね。
天地の親神様が、私、大坪総一郎の上に願いをかけておって下さる。その願いが成就して来た。これは、私だけの事ではない。皆さんの一人ひとりの上に、天地の親神様の、どうぞ、信心しておかげを受けてくれよという願がある。そこで、どうぞ信心して、おかげを受けてくれよという事は、どういう事かというと、ね。神が向こう倍力の徳を授ける。その、倍力の徳を授けたいというのが、神様の願いなんである。その、頂く徳には、もう、小さい私共の、目先目先の欲ではなくて、勿論、そういう欲も満たされるでしょう。けれども、もう限りが無い。無尽蔵。しかも、この世だけではない、あの世までにも繋がって行こうというほどしのおかげを下さろうとしておるのであり。どうぞ、頂いてくれよとおっしゃるのは、それなのです。ね。ですから、段々、信心させて頂いて分からせて頂くところは、そういうところでなからなければいけないと思うですね。皆さん、分かったでしょう。自分の願いを聞いてもらいたいばっかりにお参りしよると、と言う時代がありますよ。ね。そしてもう、それこそ、朝参り、夜参り、一生懸命に致します。やはり、神様に家向こうている。神が向こう倍力の徳を授けると仰るが、そういう向い方では、なるほど、おかげは授けられるかも知れないけれども、そら、授けられますね。もう、一心不乱、ただ、このことのおかげを頂かせて頂くことの為にと言うて、一心不乱にお参りすれば、やはり、おかげが受けられる。ね。
けれども、神は向こう倍力の徳を授けると仰る。だからその、お徳が受けられるような、打ち向かい方でなければならないという事が分かるでしょう。ね。その徳に、おかげは、これは限りなく、無尽蔵に、しかも、あの世この世を通してのおかげである。お徳と言うものは、この世にも残して置けるし、あの世にも持っていけるというほどしのもの。ね。そこの所をです、どうぞ、信心しておかげを受けてくれよと、こう仰るのです。
ある方が、合楽の信心を評して、こう言った。合楽の信心には、リズムがあると言う。私は、素晴らしい言葉だと思うて聞いた。ね。合楽の信心にはリズムがある。ね。ですから、そのリズムに乗るという事。ね。それは、暑かっても、寒かっても、ね。不思議にね、もう、出らん筈のものが出てくるです、リズムに乗ると。気持ちが良いですね。例えば、琴なら琴の調子と言うものがね。見事にこう合う。例えば、御月次祭の時に、五面なら五面の琴が、ずーっと、調子が合っておる。ね。そしてあの、琴の音の、一つのリズムに乗ってお祭りが奉仕される。ね。起居振る舞い、いうならば、立つことも、しゃがむことも、あの、一つのリズムに乗って、笙、七力、太鼓の、琴の、あの合奏される、あのリズムに乗って、この、典者方が、いわゆる、リズムに乗ってお祭りを仕える。もう非常に仕え良い、動き良い。ね。
例えばあの、浪花節なんか聞かせて頂きますとね。かねの三筋と言う、そのリズムに乗って、あの声を出すわけですけれども。もうあの、かねのほうの三味線が、ちょっと間違ったら、もう、出るはずの声も出ない。リズムに乗ると、もう自分で、それこそ、まぁ、聞き惚れるような声が出てくる。皆さんも、体験がある事だと思う。そういうね、いうならば、乱れた調子ではなくて、いわゆるその、何と申しますか。天地自然の働きとの係わり合いとでも申しましょうか。ね。そういう係わり合いが、見事に、合楽のお広前ではなされておる。そういうリズムが合楽にはある。だからその、リズムに乗るということ、ね。そのために、ここでは、神様任せとか、ね。親先生任せとかという事になってくる。親先生任せになるところにです。そこに、素晴らしい、いうならば、リズムに乗った、有難いというか、楽しいというか、何とも言えん、音色を、そこから出てくるようになるのです。そういう事がね、私は、合楽にはリズムがあるといったのは、そういう事だとこう思う。もう本当に、もう何と言うかね、よう言われるというか、ね。いつも神様の素晴らしい働きと言うか。まぁ、素晴らしいタイミングと言うか、ね。そういう、素晴らしいタイミングの中に、こうある訳です。それを、合楽におると、それを感じる。私と一緒に、例えば旅行をすると、それを皆が感じる。もう、何と言う素晴らしいことであろうかと、ね。置いたものを取っていくような、いわば、その調子で、なら、旅行なら旅行が、有難い、楽しいものになってくるし。御広前での事でも、それが、同じ事が言えれる。ね。
そこからね、素晴らしい捉え方と言うかね、問題の。いわば、そこから、はぁ、神様のご都合であったなという事。または、神様の、一分一厘間違いのない働きのなかにある事なのだから、ほんなら、このことは苦しいことなんだけれども、これとても、神様のご都合であると、有難く受けられるのである。ね。より、問題の捉え方が、素晴らしい、有難いものに捉えて行けれるのです。ね。どうして、こういう事になってくるのであろうか等と思わんですむのです。こうして神様が、おかげを下さろうとしておるという頂き方しか出来なくなってくるのです。信心させて頂いておって。ね。しかも、合楽では、そこのとこがはっきり出来てくる様に思う。
あの、広重と言う名前の絵描きさんがありましたですねぇ、江戸時代。あの、広重の絵など見て、あの、五十三次の有名な絵がありますね。あの絵の、ひとつの構図の取り方と言うか、捉え方と言うかね、素晴らしいですね。道の真ん中に、大きな大木が、ぼんとある。もう普通で、絵にも出来るようなところでないところを、焦点にして絵を描いておる。ね。描こうとするところは、富士山なんだけれども、富士山はもう、小さく小さく描いて、大きな波が、ばーっと打ってる。その波間にね、富士山がこう、描かれたり。その捉え方の素晴らしさに驚きますね。あの広重が描いた絵を、一枚一枚、そのご覧なさいませ、もう素晴らしい、いわゆる、構図のとり方。実に素晴らしい、斬新な感覚ですねぇ。おんなじものを描きましてもですよ、ね。いわゆるその、焦点の置きどころと言うか、いわゆる、構図のとり方ひとつで、そうなる。こら写真だって同じです。同じ大祭の写真を、沢山撮られますけれども、ね。その構図の撮り方一つでです。いやぁ、素晴らしい御大祭だったろうなぁと思われるような撮り方をする人と、何かこう、淋しか大祭のごたるねと言うような風な撮り方をする人があるんですよ。ね。いわゆる、構図の捉え方。
私共はその、一つの問題だって、そうなんです。それこそ、ありがた涙がこぼれるほどしに頂けるかと思うと、不平不足不満いっぱいの捉え方しか出来ない捉え方にもなってくるわけなんです。それでは馬鹿らしい。それではおかげは受けん。それではね、折角、神様へ、同じ力をもって打ち向こうてもね、それは、おかげにはなっても、お徳にはならんのです。打ち向かえば倍力の徳を授けると仰るから、せっかく打ち向かうなら、それが、特にもならせて頂けるほどしのおかげ。あぁいう事のおかげで、こういうおかげを頂いたと言えれるほどしのおかげ。ね。それを、私は、今日は、徳を授けると仰る。そういう徳を受けていかなければならん。
ほんなら、えー、例えば、お芝居なんかでもそうですね。色々な、あれがありますけれど、とりわけ、あの、歌舞伎なんかの演出と言うかね、の、素晴らしい事は、どのような場面であっても、それがね、一つの美が焦点であるという事です。歌舞伎芝居の一番素晴らしい事は。ね。
ですから、例えばそれがね、いわば、陰惨であるはずの、殺しなら殺しの場であっても、ね。今時の映画なんかを見てみますと、あの、濡れ場なんかと言うのは、本当に、子供なんかには見せられないごたる感じで、その、実感的に、いわば、演出してありますけれども。歌舞伎なんかは、そうじゃないでしょう。ね。その濡れ場そのものがです。何とはなしに余韻がある。しかも、美しい、その型というものがね、素晴らしい。ね。私は、歌舞伎の素晴らしさは、そこにあると思うです。いつも焦点が、美に置いてあるという事。美的感覚を持って構成されたり、演出されたりしておる訳です。ね。例えば、あの、忠臣蔵の勘平さんが切腹するところがありますよね。もう、普通から言うたら、もう、刀を腹に差すというだけでも、ぞーっとするごたる感じがしなきゃならないところなんですけれども、それが、そうではないでしょうが。赤い血が出ちから、ぱーっと、顔に、ね。そういう演出してありますよ。それでも、それがもう、ただ美しいという見方だけしかないでしょうが。その場面、一場面場面が。普通で言うたら、なにか嫌な、陰惨なというところでしょうけれどもね。ところが、もうその、いわば、切腹なら切腹するところが、そのまま、一つの絵になっているわけなんです。それが素晴らしい。ね。そこで私が、今日、皆さんに言うておるのは、そういう意味なんです。
様々な事がある、問題がある。けども、その問題の捉え方、感じ方なのである。それをほんなら、お芝居が、美を焦点にしておる様にです、ね。私は、有難いという、その事が、焦点でなからにゃいかんと思うです。どういう場合であっても、答えは有難いとしか出てこないという捉え方。真に有難いと思う心、すぐにみかげの始めと仰るが。その神にありがたいという答えの出るところまで、いわば、お互いの問題を、その捉え方が出来れるおかげを頂けるところまで、一つ、思いを進めていかなきゃいけません。ね。何と言う、私は、不幸せな者であろうかというような事が、まぁ、何と私ほど、幸せな者はあろうかと。おんなじ問題でも、そんなに違ってくる。ね。
そこでね、大事な事はです。今日、私が申します。合楽のお広前にはリズムがある。一糸乱れないというか、間違いの無い、一つのリズムがある。そのリズムを、先ず知れ、先ず分かれと。その調子を分かる。その調子に乗っておる私なのですから、それが、殺しの場であろうが、濡れ場であろうが、どういう場であろうが、それが、有難いという場になってくる訳なのです。ね。どうでしょうか、皆さんが、抱えておられるところの難儀、ね。いわゆる問題、ね。それが、どういう事になっておるだろうか。本当に、早う、この難儀から開放されたい。ね。一時でも早う、ここから開放されたい。だから、神様にこうして、一心にすがっておるのだ、願っておるのだという捉え方。
しかし、この事のおかげで、考えてみると、ね。初めて、天地の親神様の御恩徳が分からせていただく、初めて、この事によって、合楽にご神縁を頂くことが出来た。これから、私共の生き方が、大きく変わってくるぞと。これから、いわば、光を見つめた生活が出来るぞと、その問題を通して、その様な頂き方をしておる人もありましょう。ね。ただ、目先の問題だけを、近視眼的に、こんなにして見たらね、もう、お先真っ暗、何にも分かりません。その問題をね、問題、いわゆる、難儀をです、遠いところに置いて、そして、信心しておかげを受けるという事。ね。
御教えの中に、信心してみかげ(霊験と書く)のあるを不思議とは言うまじきものぞと。また次には、信心して霊験の無い時を、これぞ不思議なることぞと仰っておられる。おかげと言うのは、もう絶対のものなんだ。ね。そこで、いわゆる、信心してと言うておられる。ね。信心してという事は、どういう事かというとね。いわゆる、今日、私が申しますような、いわゆる、神は向こう倍力の徳を授ける。まぁ、その徳を授けられることの為に、信心を分からせてもらうというのが信心なのです。信心とは、どこまでも信ずる心。信心とは、どこまでも真心を追求して行く事。信心とは、はぁ、これが神心と言うのであろうかと、自分の心の中に、神心を生み出していく事、信心とは。御道でいう信心とは。ね。だから、そういう信心をです。出来なければおかげが頂けんと言うのじゃなくてです。そういうものかなと分からせて貰うて、ね。その事に合点をしてです、ね。そういう生き方にならせて頂こうとするところに、今までの生き方では行けなかったんだ。今までの行き方が、お粗末御無礼な事であったんだ。そこから詫びる姿勢が生れてくる。これからと言う、そこから、改まりの姿勢が、また生れてくる訳なんですよね。だから、今まで、ね。いわば、これは真心だと思うておった真心は、本当なものではなくて、より本当な真心が、自分の心のなかに生まれてくる。そこから、いわゆる、神様を信ずる、いわゆる、霊験と言うか、ね。神様ちゃ、本当に不思議な力、働きを現してくださることである事が確信されてくる。その確信、信心とは。毎日が、確信した生活、ね。それを、まぁ、安心の生活とも言うわけです。だから、もう、いよいよ、神心を目指しての生き方にさえなれば、おかげが受けられるという生き方。そういう生き方が、いわば、力が大きければ大きいだけ、神は倍力の徳を授けると仰せられる。神は倍力の徳を授けるとは、そういう事だと思うのです。ね。私は、自分自身の信心を振り返って見せていただいて、はぁ、私がおかげを受けたのは、こういう事だなと思わせて頂く。
昨日、私、読みものをしておりましたら、教祖様のお言葉が、こう抜粋してあるところを、読ませて頂きながらね、ここに写させていただいた。私は、こういうような生き方で行っておったなぁと、こう思うんです。だから、おかげを受けたんだなぁと思うんです。だから、人が助かるようになったんだなぁと思うんです。と言うのは、こういう事です。
「何事も、神の理解承り、承服いたせば安心なり」良いですか、「何事も、神に理解承り、承服いたせば安心なり」今日、私が、皆さんにお伝えしておる事を、はぁ、なるほど、そういうものだなと承服が出来たら、もう安心です。ね。神の理解と言うのはね、ものの道理、天地の道理。なるほど、そうじゃろう、こう言う難儀な目にあわなければならない元は、こういうところにあったんだと。偶然じゃないて。ここんところを、詫びていかなければならない。勿論、願っても行かなければならんけれども、改めてもいかなければならないと、いわゆる、承服する。自分で合点していくという事なんですね。何事も、神の理解承り、承服いたせば安心なりと。
神仏とも喜ばれ、親大切、夫婦仲ように、睦まじゅう致し候とある。ね。そういう、私共が、生き方、あり方にならせて頂く時にです。いわゆる、神仏共に喜ばれる。神様も、ご先祖様も喜んでくださるち言う。ね。親大切。私は、何時も言うんです、信心の分からない人にね。やはり、神様に通う何かがなからなければいけないと思うから、ね。親孝行しなさいと。誰も、親不孝したいという者はおらんけれど、ね。ほんなら、本当に、親孝行したいと思う者は少ない。もう、やむに病まれん心で、親孝行がしたいという心になれる。ご先祖様でも、そう、お粗末にしておる人ちは、滅多にないけれども。ほんなら、そのご先祖様を、大事にしなければおられんと言うて、大事にしておる人は少ない。んにゃもう、朝晩、お花は上げよります。ご物販も上げよりますというだけのことよ。ね。だから、本当に、そこに、生きる先祖を、そこに見たり、感じたりするほどしの思いをもってです、ね。親を大事にしていくという事。その心が、神の機感に叶うから、おかげが、そこの所を通って、おかげになってくるのだと思うです。ね。夫婦仲よう、ね。私はもう、夫婦は、本当に仲ようしなければいけません。
昨日、久留米市長夫妻が、お礼参拝がありました。ちょうど、私、お客さんを受けて、いっぱい、お神酒を頂きよる時でしたから、まぁ、失礼でしたけれど、コタツの間に、みんな、お二人とも入っていただいて、それから、あの、一献差し上げたんです。もう本当に、こちらの先生から、言うて頂いた通りのおかげを頂いて、おかげを頂きました。一番初めにお参りした時に、近見さん、絶対これはもう、めでたい事になりますよと、お祝いする様な事になりますよと言う御理解をいただいとるけれども、信じられない。そらそうですよね。だから、それが不安で不安でたまらなかったけれどです。その次のお参りの時にです、ね。私が、御神願に頂くのが、みなも聞かれたでしょうが、十三日会の終わった時でしたね。一艘の船に、二人の船頭が乗ってから、一人は、前進してるほうに、一人は後ろのほうへ漕いで行きよるもんだけん、船は、ぐるぐる回りよる。ね。だから、ここにね、本当に、信心という、ね。帆を上げなさいと。そうすればね、帆に神風が当たって、それこそ、目的に、それこそ、矢を射るような勢いで進みましょうよと言う様な御理解でしたよね。もう、人間の力のね、棹差しよるもんが、右と左に、こう差しよる。そんなことは問題じゃない、もう、そういうものをね、もう、一緒たくりにして、ばーっと、神風を持って、それこそ、満風の帆を上げてね、神風に吹かれて、思いの港に着かせていただくんだと。もう、本当に、葛城先生が仰った通りでしたち。大きな、私を支持してくださる勢いがね、そういう二つに、こう、もうとにかく、中心を思うてからのことであるけれども。右と言う人、左と言う人と言う様な事であった。それがね、もう、あれから、それは、もう本当に、瞬く間でした。それがまとまって、一つのほうへ進みだしたのはと言うて、昨日は、その体験を話しておられました。ね。そしてまぁ、お神酒を頂きながらです、話されること。私はもう、これだけは、これだけは絶対、人からとやこう言うて、指差される様な事はないと言う事はね。もう、男女関係だけは、もう私は、見事に綺麗でありますという事を言明しておられます。だから、どういう人からでも、あれは可笑しいと言う様な事を言われる事はありませんち言う。ね。もう、本当に、奥様を隣に置いて、もう、この人は、いわば、仲睦まじゅうしていくと言う事だけに焦点、・・・。もう、私はこれだけはと言うて、お話になっておられました。ね。やっぱり、偉くなる人は違うと思うた。ね。いわゆる、神様に通うものを持っておられる。夫婦睦まじゅう、仲ようにと、ね。親大切、夫婦仲よう、うち睦まじゅういたし候。
信心は、家庭に不和の無きが元と仰る。ね。本当の、この大元であるところの、そこの所がね乱れておる様な事ではおかげになりませんから、そのことに焦点を置いて、どこに、こういう、例えば、乱れる元があるかという事を悟らせていただいたら、そこの所を改めていかなきゃいけません。ね。これからがまた、素晴らしい。
何事も、世話苦にすなとある。ね。これは、例えば、私が、永年、もう、どういう、例えば、難儀な問題であろうが、難儀な世話であろうが、お願いしますと言うて来たが最後、もう絶対、受けて受けて、受け抜いてきたという事です。困ったもんじゃある、こげな病人ば、家に連れて来てなんて思わなかった。皆さんが、ご承知の通りですね。椛目時代のこと。それこそもう、十何人の、もうそれこそ、もう、今にも、息を引き取ろうかという様な病人が、うようよしとったでしょうが、あの時分は。先生お願いしますと言うて、もう、それこそ、もう後は寄り付かんとじゃん。親戚のもんが。という様な者では、私はその、世話を苦にしなかったんです。ね。これは、私だけではなかった。もう、両親家内、みんながそうでした。今の光昭君なんかはもう、そういう、もう肺病やら、何やらもう、おっさんのごたるとどんが、みんなお守りして、育ってくれとります。
何事も、世話苦にすな。そこを、私は、成り行き、ね。自分から求めてじゃなくてもです、ね。世話をしなければならん時には、もう、それこそ、言うならば、大げさに言うならば、命懸けですよね。子供にあーた、もう、俗で言う結核の、医者でも怖くて寄りきらんごたっとに、あーた、子供を抱かせとっとじゃけん、あーた、命懸けでやらなきゃ出来るこっじゃなか。ね。何事も、世話を苦にすなと。せなきゃならん時には、真心もってせよと。ね。そこんところを実意にいたし、何事も世話を苦にすな、実意にいたし、怖いことも無しと言うておられます。だから、私共は、そこんところを信じておった。怖いことはないと。ね。どの様な事ありても、逃げること無しと。私共は、ここんところが実行出来ておった。そら困るね、これだけはち。
もう、それでもね。一遍だけありましたね、家内が。ちょっと頭が可笑しいとです。そらもう立派な、素晴らしい良か男です。まぁだ、二十七八ぐらいの。それがある人が、どうぞお願いしますと、連れて来たんです。ところが、この人はもう、その、女子さえみりゃ、その色情するわけです。もう、それはもう、子供でも年寄りでもなかち言うんです。それば、家内が、障子の横から聴きよってから、出てきましてね。お父さん、これほど婦人の方たちのお参りのあるとに、そげな人ば引き受けよりなさったら、どげな事になるか分からんけん、それだけは断りなさらにゃいかんですよち言うてきました。もう、家内が言うて来たつは、これが一言。私が言うことにその、反対したのは。ね。けれどもね、神様、神様がここに教えてくださったんだから、お前が、そげな心配することは要らんと言うて。ところがもう、どういう事になったでしょうかねぇ。一日居りましたら、もう、夕方、おらなくなりました。ね。そしたら、自宅に帰っとるという事でした。それっきり来ませんでした。私が、あん時に、家内が、あげん言いますけんで、ち言うちから断わっとったらね、私が修行が、それで崩れておったかも知れません。ね。怖いこと無しと。そこを信じておったわけです。
どの様な事ありても、逃げることなしと言う。何事も、人に頼むというなと。ここんところが、また、素晴らしいですね。さぁ、あちらに頼み、こちらに頼みしても、出来んけん神様に頼むち言うごとある。ね。もう、なーにも、頼るものは、本当に頼れるのは、神様だけだと、私は確信しておった。だから、人にも頼まん。ここでだから、総代達に私が言うんですよ。ね。総代幹部と言うて、はぁ、言い寄るけども、私は、絶対、あんたどんに頼よっとらんよと、私が言う。もう、本当に、面から言います、総代達に。頼よっとらんもん、実際。はっはは、頼りになるは神様だけだもん。ただ、あんた達は、おかげを受けなきゃならんから、御用しておるだけの事なんだから。私は、あんた達に頼まん。もうこの頃、先だって、そうでしたよ。何かちょっと、行き詰まりがあってから、出来るとか出来んとか。ほんなら、一時ばっかり止めときなさい。そげなこつ、あーたが言わしゃったら、どんこん出来んち言うてから、言う様な事でしたけれどね。頼んどらんもんだから。頼むのは、神様ご一人だ。ね。何事も、人に頼むと言うなと、神様からお知らせありとあります。だから、神様から、こういうお知らせを受けておられた。それを、金光大神は、私共に教えてくださった。をれを、私は実行したという事になるのですよ。ね。ですから、こういう姿勢にならせて頂いて、神に打ち向かうという所にです。倍力の徳が受けられるわけです。ね。そういう姿勢になるからこそです、ね。さっきのお芝居の話やら、広重の話じゃないけれども、ね。いわゆる、何時もが、有難いと言う答えの所が焦点をもって絞ってあるわけなんです。どんな事であっても。ね。
お芝居の演出が、ね。特に歌舞伎芝居はね。美という事が焦点である。だから、陰惨な、例えば、殺しの場であっても、それが、見事な、一つの絵になって、美しいとだけしか感じんのだと。ね。同じ場面であっても、その捉え方、ね。いわゆる、構図の取り方が素晴らしいと、私は、広重の例を取ってお話ししましたね。一つの問題でも、捉え方なんだ。それが、素晴らしくもありゃ、素晴らしくもない事になってくるのです。そういう、楽しい生き方を体得させて頂いて、信心を進めていく。ね。いよいよ、神様に打ち向こうていくのである。だから、神は、打ち向かう倍力の徳を授ける。その徳こそがね、神様の願いなんだ。神願が成就する。神様の願いが成就するという事は、私共、人間氏子の、一人ひとりが、真に助かるという事以外にないのです。ね。そら、なるほど、猫でも犬でも、神様の、ね。言うならば、氏子に違いはないけれども。ほんなら、猫やら馬やらに、幸せになってくれよと言う願いを持っとりなさらんのです。そら、幸せになってくれよと願うておられるのは、人間にだけなんです。ね。人間氏子にだけなんです。ね。神の願い、それは。いわゆる、それは御神願。御神願成就という事はです。私共が、真に助かるという事。ね。そこで、ほんなら、ここで言われますようにね。これは、三代金光様から頂いた御教えであります様に、氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからと言う頂き方。ね。なかなか、神様任せになられん事もありますけれども。そこには、一つのリズムがある。だから、こんな難しい事はと思うけれども、そのリズムが、こう奏でてくれる、そのリズムがね、素晴らしいですから、それに乗って、そこを通り抜けることが出来ておるというおかげが受けられるのです。ね。ですから一つ、どうでも、その問題の捉え方、ね。ものの見方、感じ方と言うものをです。一つ、体得しなければいけません。もう、合楽では、それを体得しなかったら、合楽通いの値打ちはないとさえ、私は思います。
神は向こう倍力の徳を授けると仰せられるのですから。そんなら、一生懸命参りよら、徳が受けられる、そういうこっじゃない。そういう素晴らしい捉え方、感じ方が出来れる意味においての、打ち向かうのである。その、教祖様のお言葉をね。神様からのお知らせありと仰る。神様は、このように、教祖を通して知らせておられる。ね。
もう一遍読んでみますよね。何事も、神の理解承り、承服いたせば安心なり。神仏とも喜ばれ、親大切、夫婦仲ように、うち睦まじゅういたし候。何事も世話苦にすな、実意にいたし、怖いこともなし。どの様な事ありても、逃げることなし。何事も、人を頼むと言うなと神からお知らせありとあります。だから、ここのところの、姿勢を、一つ、作らせていただくと、大変有難い事になってくると思うのですね。どうぞ。